板書の意味

電子黒板も主流になりつつある昨今、単純な話になってしまうのだが、もう一度板書のことを考えてみたい。

 

学習の困難がどこにあるのかを調べるWISC-IV(心理検査)に処理速度という下位検査指標がある。詳しくは割愛するが、ここが低い場合、板書に困難がある。

 

板書というものは、あまりにも授業の中に溶け込みすぎて、それがないという学校の授業は、ほぼないといってもよい。

ただ、板書をノートに写す作業・・・この単調にも思える作業こそ、特別なニーズのある子にとっては難しいのだ。

 

ほんの簡単な板書であっても、黒板を見て一時的に文字を覚え、それをノートに書く。

文字を覚え、それを想起するというごく自然なことに思えることも、一部の子の場合、記憶に留まりにくい。

またそれを書く、ということも書字に困難があれば余計に時間がかかる。

 

つまりどういうことかといえば、顔を上げ、黒板の文字を確認して、ノートに視線を落とし、記憶を頼りに書字をする。細かく書けばこの間に脳はたくさんの処理を行っているのだ。

 

この作業が授業の50分間に何度も行われていると考えると、かなり脳の負担になる子もいるということだ。

 

塾の指導でも板書が難しいな、と思い、こちらが直接ノートに数学の式を書いただけで、サクサクと問題を解く子もいる。ここから分かることは、たった何文字かの式、文字を書くということであっても大変なのだ。

 

よって、既知のことではあるが、処理速度が低い子はプリント学習が望ましい。また、ノートに直接書いてあげる方が良い。

 

また私がなるだけ、心がけていることとしては(当たり前のことでもあるのだが)、板書の時間(見て・書く時間)と説明の時間(聞く時間)を分けることがある。しかし、つい、板書しながら話もしてしまう・・・反省。

ここは発達にハンデがある子もない子もどちらにも適している指導である。

 

ただし、ここで板書の良さにも言及したい。

これは感覚的な部分も含んでいるのだが、明らかに板書をした方が授業の雰囲気が作られる。授業の空気が流れるのだ。

ある本でも読んだのだが、板書を書くという行為、行動、その人間のシルエットが指導者という役割を規定しうるのである。つまり、黒板にチョークで書く=先生・指導者 という役柄が教室という舞台の中で自然に作られるのである。

 

なので、なるだけ板書をする、ということも効果的に使いたいと思っている。

 

私の尊敬する先生の授業は黒板上で世界地図が動いていた。流れるようなチョークの動き、それとタイミングが合った言葉選び、それに伴う身振り・手振り・・・先生はノートはとらなくていいからイメージを目に焼き付けろ、と言っていた。

電子黒板にはこれは出せない。

 

そうか、黒板はあくまで教材なんだ、と今更ながら改めて感じる最近である。子ども達の指導で色々なことを気づかされる。