学びに制限時間はあるのか、という問題について

何かをやる場合に一定の時間内にそれを遂行する、ということは何にでも当てはまるものである。公教育は皆に等しく学習の機会を与えるので、時間の設定は不可欠である。

 

まずこれはわかっているという上で考えたい。

 

小学生の通知表が各学期ごとに、教科ごとの学習内容が書かれてあり、できる、だいたいできる、などの文言が書かれてある。

さて、この学習内容は、学習指導要領に基づくものである。中学生も5段階評価だが、同じようなものだ。

 

何かの単元、例えば、中学生の数学、方程式であれば中1の時に、2学期の2か月くらいだろうか、習得をすることが必要である。もっと言えば、三年間の中で習得をすることが求められる。

予め、子ども達は制限時間が設けられているのである。

だが、果たして、何かを習得する時に、その時間内でできなかったからと言って、それができない、とは言えないのではないか、と思うのである。

 

例えば、私は小学生の時、逆上がりに大変苦労した。自分でも練習して何とかできたのである。分数、少数の学習も非常に苦労をした。大学受験も浪人し、人よりも時間をかけた。つまり、正規の時間内ではどうしても習得が難しかったので、学校外の時間を使い、何とかそれを習得できるようにしていったのである。当時は、なぜ自分はすぐにできないのだろうと、悔しかった思いがある。

 

逆に言えば、ちゃんとその子に相応な時間を与えてあげれば習得も可能、ということでもある。

勝手に決められた制限時間内に、もう少しでできたのに・・・と思いつつ、できないことになってしまう子がいると思うと、何とも私も悔しい思いである。

また、何かを習得、ということではなく、勉強ではなく、「学び」という観点で考えてみたい。

生涯学習と言う言葉がある。学習は生涯に渡って行うものなのである。

 

私は大学院まで修了をした。これは大学時代の4年間にどうしても自分の進路ややりたいことを熟成させることができなかったこともある。また何かを学んでいく中で、興味も徐々に移ろいでいった。だから単純に4年間という時間では足りなかったのである。

だが、これは間違いであるか、学び、というものはこのように時間をかけていく中で本当にその物事の意味が輝きだす、ということではないか、とも自身の経験から思うのである。

 

大学院修了間際、大学院の先生に論文指導をしてもらった際に、こんなことを言われた。

簡単な問題でも時間をかけてしまった自分の小学生時代の話をすると、

 

「勘が良い、優秀な子は、1+1=2ってすぐに答えを出してしまうよ。」

 

「だけど、大学に来てごらん。」

 

「数学で1+1を証明することはとても大変なことなんだよ」

 

学びには時間制限も答えもない。